2016年3月21日月曜日

2016年3月13日「地下鉄サリン事件から21年の集い」テーマ:死刑についてーオ ウム事件を考えるー ③

更新が滞ってすみません。引き続き発言者からの発言です。
小川原弁護士から、オウム死刑囚はもっと言いたいことがあるはずで、再審請求をたくさんするべきだ、一方藤田氏からも、宗教的な事由を、裁判でもっと明らかにすべきだという発言がされました。
書き取り、今週中には全て終わらせたいと思っています。



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武井弁護士「ありがとうございました。いや別に、長くなくて予定通りなんですよね。他のお二人がはやめに終わったところでね(笑)。江川さんからいろいろ多岐にわたるお話がありましたが、こっからは、あの、かみ合うようなことを考えながらお話を進めていただきたいのですが、あのー、今、江川さんから、問題定義があって、非常に積極的なお話だったと思うんですが、小川原さんがあのー、ちょっと遠慮がちだったんで、もうちょっと踏み込んで、いいと思うんで、お話いただけますか。」


小川原弁護士
はい(笑)、あのー、遠慮がちだったかもしれないんですけど、わたしは、麻原さんに対する死刑の執行に反対なんですね。
それは、さっき申し上げたような、死刑の執行が反対だということも、もちろんあるんですけども、それだけではなくてですね、わたしが弁護人として関わってきた中でですね、わたし自身が、あれを本当はやるべきだったんじゃないかなと、思って、やらずに終わってしまっていることもあるわけです。それは彼(麻原)の、責任能力とか、心神喪失とか、そういったことに関わる事柄なんですね。

わたしは、何度も何度も麻原さんに接見をしてました。で、すごく饒舌な方だし、宗教的なお話もたくさんされた。ところが、彼はある段階で変わるんですね。どこで変わったのかといえば、あのー、井上(嘉浩)さん、が、証人として出てくる場面がありました。彼は私たちに、弁護団・・・我々からすると井上さんという人は、我々に事前に開示されたところでは、麻原さんが(事件の)指示を(したという)裏付ける情報の証言をしそうだと。
そういう証人でしたから、我々弁護団としたら当然、反対尋問をすると。事実に関して、細かいところを含めてですね、あのー、尋問するんだというふうに考えていました。ところが、麻原さんは、反対尋問をすることに反対で、(井上さんに)尋問しないでほしいと言うんです。麻原さんからすると、井上さんという人は、宗教的な魂が高い、という状態の人で、その人に対して、法廷でいろいろな批判的な尋問をすべきではないと、思っているようでした。
「そこで尋問すれば麻原弁護団のみなさんに対しても・・・」その、なにか・・・どういう罰が下るのか、よくわかりませんけども、とにかく「罰がありうる」みたいなことまでおっしゃっています。でも、我々は、罰が来ようが来なかろうがですね、尋問をするんだ、と。ということでですね、麻原さんの意向に従わなかったんです。

今、それで本当によかったのかどうか・・・弁護団として、よかったのかどうか・・・ひとつ、自分では疑問を感じているところなんですけども、結局、反対尋問しました。
その際、井上さんが法廷で、麻原さんに対して批判的なことを述べていた。それをきいた麻原さんが、わたしの目から見ると、すごく動揺してたように見えました。わたしは、麻原さんっていう人は、「宗教者」なんだと・・・いう風に理解してるんですけども、その彼が人間として動揺してるように見えたんです。

それから、接見をまた重ねていくわけですが、接見の意思疎通がだんだんうまくできなくなっていく・・・で彼は結局、法廷で意見陳述の時には、弁護団で予想もしないような英語でしゃべり始めたりとか、わたしもすごく驚きましたし、その後も、接見を繰り返しましたけども、充分な意思疎通ができない中で、どんどん裁判の経過が過ぎていってですね、わたしは、やっぱりそういう中で、麻原さんっていう人が・・・その、まあ拘禁反応を起こしてるのかもしれない・・・で、えー・・・訴訟を遂行するだけの能力があるのかどうか、疑問に思いました。

わたしは、弁護団の中では、「精神鑑定やるべきなんじゃないか」という立場です。
だけども、弁護団の中では、詐病の可能性だってあるだろうという人だっています。弁護団は12人いたんですけども、もう本当にさまざまな、国選弁護人が、急に集められたわけですから、東京弁護士会、第一東京、第二東京から、三つの弁護士会から四人ずつ、急に集められて、みんな刑事弁護は随分やっている方でしたけども、さまざまな考え方の違いがあって。
あのー・・・麻原さんについても、精神鑑定やるべきだとかやらせるべきではないっていう、そういう人もですね、さまざまにいてですね、結局、責任能力を争点とすることはなかったし、精神鑑定をすることもなかったわけです。だけども、わたしの個人としての見方では、麻原さんて人は、その(井上さんが証人に立った)時に相当、精神的なショックを受けていて、詐病ではないと、いう風にわたしは感じました。精神鑑定もするべきだと、責任能力もあらそうべきだとも思ったわけですけども、結局まあ弁護団の中で通らなくて。

で、一審の、死刑判決が出て、控訴審で、争うかなと思ってたんだけども、結局、控訴審で争うことはなかった。
今、それからまあ、時間も過ぎたわけなんですが、わたしは、今の時点で麻原さんという人については、刑事訴訟法にあるんですけども、心神喪失の人に対しては死刑の執行を・・・まぁ、しないと。法務大臣の命で死刑の執行を停止するんだと、いう法律があることはあるんですね。

で、ここで言われる心神喪失というのは、いわゆる、責任能力とは違う問題です。「刑事事件の被告人の責任能力」と言って、心神喪失と言ってるのは、地理・面識とか、いろんなことを判断できるとか、行動を制御する能力があるだろうか、そういう意味での責任能力・心神喪失の問題なんですけれども、そうではなくて、刑の執行全体の心神喪失とは、「受刑能力」。「刑罰としての執行を受けるんだ」ということがわかっている人でなければ、死刑を執行する意味はないわけです。
何をされてるのかわからない人に対して、刑罰を執行するのは意味があるのかと。わたしは、麻原さんという人は、どんな刑罰を執行されようとしているのか、判断する能力がないんじゃないか。そういう意味で心神喪失の疑いがあるんじゃないかと、思っているんですけども。刑事訴訟法の条文があるんです。法務大臣が規定することができる・・・でも誰がどういう形で裁判の場で争えるのか。そういう定めがないですね。

わたしは日本の刑事訴訟法や司法手続きに、多くの問題があると思ってるんですけども。争い手続きが、よくわからない状態なんだなという風に、思っているわけです。

それが一つと、それともう一つ先ほどから、江川さんの方からも・・・執行を先延ばしするためだけの再審請求があるんじゃないかって、いうご意見があるんですけども、わたしは、手続き的にさまざまな問題があると思っているんですね、一審でも十分に争えなかった、控訴審でも争えなかった、まして、捜査段階では争いたくても、自分ではできなかった。そういう問題点がたくさんあると思うんです。
なんで争わないのか、それは(被告が)諦めてしまってるからなんです。「弁護人も信用できない。裁判官はいくらいっても聞いてくれなかった。」っていう・・・誰でもだと思いますけども、いろんな思い、いろんな生い立ちがあるわけです。それは、刑事手続のいろんな段階で、それぞれに反映されるべきだと思ってるんですけども、それをちゃんと聞いてくれる弁護人がいなかった。

それがたまたまですね、全部確定したあとになって、まだ言いたいという・・・大概の場合は、「もう遅いよ」という風になっちゃうんですけど、中に、まあ一部弁護士がですね、「それでもやる」という弁護士だっているわけで、それがですね、「いたずらな引き伸ばし」とか、言われるかもしれませんけども、わたしは、そうではなくて、あらゆる点が、刑罰制度としての死刑執行については、あらゆる点が、争われていいんだと、それはいつの時代でもいいんだと。
今の刑罰程度では、確定してしまえば、争うことができない。制度上はそうなってしまうこともあるんですけど、ただ、今の日本の死刑制度、今、刑罰制度、死刑制度にはたくさんの問題点があって、まぁ・・・いくらでも争っていいんだと、いう風にわたしは思って、いるんですけれども。

ちょっと話を戻すと、麻原さんについてもですね、死刑を執行するということについては、さまざまな法制度上の問題があって、争えていいんだという風に、思ってるわけです。以上です。


武井弁護士「ありがとうございました。ここで、制度の問題ということで、あるいはちょっと、宗教の問題で、悩んだんですけどが、今も、麻原に死刑を執行すべきだと、それとも返すべきだという点を含めてですね、麻原のことを含めてですね、藤田さんの方から、宗教的な関係から、この点についてコメントいただけますか。」


藤田氏
今の・・・小川原さんの、最後の話に少し重なると思うんですが、ストレートに被害者の方の要望では・・・言えないですね・・・

えっと、先ほどもですが、土谷氏なんですけども、実は、土谷氏、つかまったあとにですね、松本サリンでのこと(自分の作ったサリンが使われたということ)を初めて知ったと、彼はいうんですね。
それで、非常にショックを受けて、もう許されないと思って、検事が出した調書に、署名捺印しちゃったという、彼は、わたしが会った頃には、死刑確定直前にですね、あるいは作文をしてきたのに、そのショックでもって署名捺印したんだけど、その調書には「土谷ってのは事件前からオウムの犯行だって知ってた」ってなことが書いてあったんですよ。
でそれをやった検事さんは、厚生省の村木事件のxx氏と聞きました。それでですね、彼(土谷氏)はそんなにふかーく・・・実は、オウム人間になってなかったってのが、そこでわかるんですけれども。

だけど恐ろしいことにですね、公判前日に、突然、彼は、上方から透明な光・・・白銀光が放ち・・・光り輝いてる中にですね、麻原が現れるのを見るんですよ。それで、有名な発言ですね。土谷氏は自らのことを「麻原尊師の直弟子です」というんですけども。
そうした一種の異様な体験っていうのに続いて、彼流の、非常に乱暴な裁判になったんですね。

そういうので見るとですね、他にも、今の麻原氏の、井上証人の話も出たんですけど、わたしは元々、カルトの取材してて、同じ経緯で1995年にxx県のxx市で、女性祈祷師に6人殺された事件、法的には三人が殺人でその他の場合は殺人になってないんですけど、いずれにしても、祈祷に招かれてる時に殺されちゃった、それ非常に強い宗教性があるんですが、一切検察は認めないし、あれは宗教事件とみたら、そうじゃないんだと言って、判決もそうなっちゃったんですが、そういうのみててですね、宗教事件っていう風に捉えるとわけわかんなくなるんだなーと、感じまして、そしたら、土谷氏の私選弁護人を務めた弁護士さんが、集団は教祖に対する世俗とは全く異なる隷属の実態があるんだから、それを直視しなければならないから、刑法の解釈を新たに構築すべきだ、というようなことをおっしゃってたんですね。

それはオウムの一連の事件を傍聴してて、少なくとも思ったことなんです。今からはどうしようもないのかもしれないのですが、小川原先生のお話を聞くと、そういうこと(宗教的な観点から)で言いたいオウムの死刑囚が何人もいる、ということです。

ですから、早川(紀代秀)が・・・彼は直接地下鉄サリン事件には、罪は問われてなかったんですが、早川氏はサリン工場作る時の、建設省の責任者でもありましたし、それからサリンを70t作った時の(保管用)倉庫がですね、第9サティアンか第10サティアンを作っていたりするんですね。それは、罪に問われてはいないですが、そういう風にやってる男なんですよ。

で、彼が収監される前に会って、どういう風に言ったかというと、要するに(宗教的な動機は)何もかも却下されて、最後まで理解されなかったと。何を理解されなかったかというと、彼ははじめっからですね、一審から懸命に、「事件は麻原氏の宗教的動機に寄るもので、我々はそれに従ったんだ」ということですけども、そういうこと一切、(裁判では)認めなかったですよ。

要するに事件の宗教的背景ですね、「グルと弟子の関係」っていった本質が、認められなかった。
彼は死刑になったこと自体は不満ではなくて、そっちが不満なわけです。
裁判の中で、唯一例外的だったのが、新實(智光)氏の、高裁判決のときにですね、判決でこういう風に言ったんですね。 「オウム真理教は宗教の皮を被った凶悪テロ集団にすぎない、だけれども、そういう風に事件を矮小化して見ても、普通の善良だった青年が、なぜこのような犯罪を犯してしまったのかは解けなかった、何も答えることができないんだ」という風なことを言って、結局分からなかったということが、確かに(判決文に)書いてあるのでした。

それで、結論としては死刑なんですけれども、そういう風な疑問を呈した判決あるいは裁判官っていうのは、ぼくはそれ一つだけしか知りません。オウムの死刑判決でですね、そういうところなんで、オウムの場合、再審して、そこの宗教性のところを明らかにしないと、本質はわからない、というのは、ぼくの考えは以前と変わらないですね。とりあえず、そういうとこで。


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