2016年3月22日火曜日

2016年3月13日「地下鉄サリン事件から21年の集い」テーマ:死刑についてーオウム事件を考えるー ④

発言の続きです。江川氏のご意見から始まります。
どのくらいの量からどういう風に書き起こしたら読みやすいのかさっぱりわからなくて、読みにくいかもしれないのですがすみません。すでにupしたものでも、誤字脱字などを見つけたらこっそり改訂する所存です。







江川氏:
今、お二方から話を聞いてて、すごく違和感を感じたのはですね、宗教だから裁判のやり方がどうなのかな〜というのは、違うと思うんです。宗教だろうがそうじゃないだろうが、やっぱりその裁判っていうのは、あるいはそのxx(聞き取れず)っていうのは、同じように適用されなきゃいけないんじゃないかと思うんですね。ただ、問題は、さっき言った心の支配の元というのを、全くその(訴訟)能力に取り入れなくていいのかどうかと、そういうことだと思うんです。

ただ、その意見の本質的な・・・まぁそのどこが本質的なのかは、いろいろ異なると思いますけども、例えばその藤田さんがおっしゃったような、宗教的なものっていうのが関連したければですね、わたしは裁判という場ではないと思うんですね。
裁判っていうのは、わたしは一番最初は、真実というか何が起きてこうなったのかということを全て解明する場だと思ってましたけれども、けして(裁判員制度適用)前のゆっくりな裁判であってもですね、そういうことが全部わかるわけではないし、そこを裁判所に求めても、それは違うんじゃないかなって思うんですね、それよりはむしろ、それだから再審というのではなくて、被告人に話を聞いて、それをきちっと発表できるってことが大事だと思うんです。

だから死刑囚が死刑が確定しちゃうと、ほとんどの人に会えなくなっちゃうんですね。そういう情報発信も、非常にしにくいという、そういう状況こそが問題であって、それが裁判のところにあんまり持ち込むんじゃないかなと、いう風に思っています。


藤田氏:
今の江川さんの意見に、賛成っていうか、それこそ言いたかった、その前提として喋ってたんですね。
というのはあのー、ぼくもはじめ、裁判が始まった時、これでいろいろわかるのかなーって思ってたら、新聞報道、テレビ見てて、宗教的なことってのは、全く出てこないってくらい出てこない。それでこりゃだめだと思って、自分で傍聴行くようになったんですけども、やっぱり司法ってのは、具体的に、個別の犯罪でどうかこうかってやることですが、それでは全く・・・あのー、(真相が)解明できないってのはよくわかりましたし、またそういう場でもないってことも、わかりました。
それだったらどうするかっていったら、やはり他の場でやるべきなんです。やるべきだったんです。

これはアメリカと比べてですね、アメリカはオウム事件起こった時、テロ事件として扱ってですね、こりゃ大変だなっていう風に、するっと認識するわけですね。それで、いつまでもやめないわけですよ。はじめアメリカのオウムの信者を呼び出して聞いたりしたんですけども・・・これは中川(智正)氏と面会できてた時ですから、中川氏の死刑確定前なんですが、中川氏が「アメリカからダンジングっていう、海軍の人が来たよ」って(笑)なんじゃいって。
そしたら、その人アメリカ海軍の高等軍人なんですが、テロ関係の政府の機関の人間だったんですね。それから、去年のこの集会にお出になったアンソニー・トゥーさんとかですね。今もやってるかどうか知らないですけどね(笑)
それだけ重大問題として捉えて、調べたんですね。
日本は、裁判以外でそういう機関を持って調べようっていう意見もなんにもなかった。
ぼくはそういう風に思ってますけど、そういう具体的なことにならなかったことに、非常にあの、ごく一部しか、彼らを突き動かした「強烈な力」というものを、解明できなかったという風に、ぼくは思ってます。そういう意味では、江川さんのおっしゃる通り、ということです。


武井弁護士「ありがとうございます。わたしもオウム真理教信者の弁護やったことありますが、確かにできるだけ宗教に関する問題もやりたかったんですが、マインドコントロールという限りでは騒ぎがありましたけど、なかなかそれ以上はできないという、限界を感じてたのは確かですね。
今日、小川原さんから、死刑のことはいいづらいかもしれませんが、もうちょっと踏み込んでもいいと思うんで、お願いできますか。 」


小川原弁護士:
はい、今日は随分遠慮してんだなって(笑)言われてしまうんですけども、あの、江川さんがおっしゃるように、死刑の問題ってのは存廃の議論だけにしちゃいけないと思ってる。これは終身刑についても同じで、終身刑も単純に賛成・反対の議論にしちゃいけない。そういう風に思います。
もっともっと多様なもの・・・という風に思っています。

その中で日本の刑罰ってどうなってるんだろう、っていう風に、現状を見ていけばですね、死刑と無期(懲役)刑があって、無期刑ってのはご承知だと思いますけども、条文の上でいえば、10年を過ぎると仮釈放可能になるという風になっていて、現在正確な数はよくわからないけど、1,800人ぐらいだったでしょうか、無期刑の人たちがいます。
死刑確定者の人たちの数は、126、7人になってるんでしょうか、こないだも一人確定したかと思います。あの・・・じゃあ無期刑の人たち、10年過ぎて仮釈放可能になってるのかっていうと、現実にはそうではなくてですね・・・あのー・・・年間数人が、まぁ仮釈放可能と。ですから、それ以上の数の人たちが、獄中で死亡しているわけです。

仮釈放になった人たちの平均的な収容年数を見ても、三十数年になってしまっている、っていうのが現状だと思います。ですから、50年60年と仮釈放にならない、そのまま刑務所の中で亡くなる人も多い。そういうのも、無期刑が事実上終身刑化してるんだという風に言われてるわけです。

一方では、もうすでに事実上(無期刑が)終身化したんだから、終身刑を導入する議論なんかいらないんだという言い方をする人たちもいるわけです。でもわたしはそうじゃないという風に思います。

二点、違ってるんだなと思ってるのはですね、事実上終身刑化していいわけじゃない。無期刑を言い渡された人の中にも、例えば深く反省してるだとか、受け入れ可能であるとか、被害者もそれを認容してるとか、そういう人たちもいるわけですから、わたしは無期刑を言い渡された人についても、ある段階で仮釈放を積極的に活用すべきだという風には思っています。そういった意味では、現在の無期刑の運用ってのは、間違ってるんだと思います。
それともう一つは、例えば裁判の法廷でですね、死刑か、仮釈放のある無期刑かっていうのを選択肢になってきたときに、事実上無期刑は終身刑化してるんですよと言っても、運用によってまた変わり得てしまう。そういう中では実際に刑罰の選択肢としては、裁判員裁判の中でも、「死刑か、仮釈放のある無期刑か」その二つしかないわけです。

わたしは、多様な刑罰の選択肢があっていい、その中には、仮釈放のない終身刑という選択肢も議論の中にはあり得ていいんじゃないか、という風に思っています。
ただこの仮釈放なり終身刑ってのは、単純にずっと閉じ込められたままでいくもんなのかっていうのかというと、諸外国を見ると必ずしもそうではありません。
わたしも、アメリカの制度を見たり、イギリスとかフランスとか他の国の制度を見たりしてるんですけども、例えば、10なん年とか、20なん年経ったら再審の機会はあるけども、収容まで延長されてしまう人たちも数多くいる。実際外に出てくるのは、極めて難しいわけなんですけども、死刑と、やはりそれに変わりうる代替刑としての終身刑というのは、わたしは、公の議論をすべき問題だなと思うんですね。
世論調査で決めるんじゃなくて、法務省とか、国会の場でですね、諸外国の制度も含めて検討すべきなんだ。日本の死刑制度について、検討すべき点はさまざまにあると思います。

一つは、やはり再審の制度が十分じゃないということも、視野に入れて考える必要があると思います。袴田事件が、まさに端的なケースとして現れてると思いますけども、再審の制度が、ものすごく時間ばかりかかってしまうと。そういう中で、死刑確定者としての収容が長引いて、そこの中で精神的な負担というのがすごく大きい。
それを支える弁護人、国選の制度がありませんから、全く手弁当で何十年もやるしかない。そういう弁護人に巡り会える死刑確定者っていうのは、少ないんだろうと思います。さっきちょっとわたし言いましたけども、争いたいと思ってる死刑確定者ってのはたくさんいると思うんです。でも、諦めてしまってる人がほとんどで、それを弁護士が支えるといったら、お金が全然出ない中で、自分の家族や事務所の維持やら、そういう中で、弁護士がやるとなると・・・そういう弁護士に期待せざるをえないような、そういう制度がやっぱり検討されるべきなんだろうなという風に思います。

それと、現在の死刑の執行の方法、さっきちょっと出たかと思いますけども、当日の朝、言われるだけです。これがアメリカだったら数ヶ月前に公表されて、インターネットで公開されてます。ですから、執行される前に、自分のご家族とか会いたい人に会って、別れを告げることができます。その前の日には、自分の食べたいものを希望できたり、なにを喋ってなにを食べたかまで公表されてるんですね。

でも日本じゃ全くわからない。そういう中で、もちろん弁護士に相談することもできないわけですから、死刑の執行が行われてしまう。
そういう制度でいいのかとか・・・日本の、あと執行の制度は絞首刑という制度なんですけども、これも明治の頃に当時の先進国だったイギリスから、「苦痛のない執行の制度なんだ」という風に言われてきたんですけども、実際、他の裁判などいろんな形で明らかになってるんですけども、死刑の執行に絞首刑というのは、実際は相当な苦痛を伴ってるんじゃないかと。先進国の中では、例えばアメリカなら「絞首刑は残酷だ」ということで電気椅子になったり、電気椅子はやはり弊害が多いということで、薬物になったり、で薬物の中でも、その薬物を・・・様々な問題があって、裁判の中で争われる。日本でも、死刑の執行のやりかた、ありかたが、さっきちょっと言いましたけども、マスコミの方がですね、現場で見て、国民に伝えることによって、残虐な刑かどうか判断されるべきなんじゃないか。
日本でも、明治の頃は、新聞記者が死刑執行の場に立ち会ったりしてました。それが日本では、今はもう立ち会うなんてとんでもないなんていう話になってしまってるんですけども。

さっきちょっと高橋さんのお話にもあったと思うんですが、死刑確定者というのは、例えば法廷に呼ばれてきても、遮蔽されて見えないようになってたみたいですね。
日本の社会では、死刑確定者は生きてたって死んだのと同じように見えなくされている
「麻原さんってもう死んでるんじゃないの?」ってよく聞かれることもあるわけです。麻原さんだけじゃなくて、120数名の死刑確定者が、日本国内に生きてる、だけどみんなに見えないようにされてる。そういう中で、制度全体について議論をされないまま、裁判員裁判で、死刑の執行を決断させられてるという風になってると思いますから、わたしは公の場でたくさん議論されるべきだという風に考えるわけです。
以上です。


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