上祐史浩氏について書かれているところを抜粋して掲載します。
宮前一明さんについては、wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%98%8E)、手記(http://kazakimiyamae.blogspot.jp/)をご参照のこと。
<上祐出所後の動向>
まずメディアを最大限に活用し、大々的な記者会見をおこなうだろう。表面は幹部(当たり障りのない)の誰かを代表に見立て、謝罪表明と意味不明な補償プランを発表するでしょう。
その目的は、オウム信徒の救済である。決して社会に受け入れられるための社会復帰とは違う。
彼が被害者やご遺族の心痛を思いやり、思いを馳せることなどあり得ない。謝罪・補償の本質はオウム空間の維持であり組織防衛的なものだ。そしてオウム法案への牽制と世の非難をかわすためだ。
多くのダミー会社を設立して教団の資金を分配し隠匿していきたシステムの延命を巧みに企てるためのパフォーマンスに過ぎないだろう。彼も他の幹部たちも、ご遺族や被害者への謝罪・補償が当然であることを全く分かっていない。だから今まで無視し続けて来たのだ。
謝罪・補償表明と引き替えに上祐はこう訴えるだろう。
「オウムの信徒たちを見守って下さい。罪のない、多くの弟子達にどうか優しく接して下さい。お願いします。」と。
謝罪・補償さえ済めばもう終りだ、と考えているだろう。
被害者、ご遺族の心の傷跡は一生消えないことを知る由もない。
真の苦しみとは修行ではなく、他人へ与えた苦しみの深さを知ることであり、罪の深さから逃れることなく退治し内省することではないだろうか。彼らにはオウムに入信する前の純粋な信仰心に戻っていただきたい。そう心から祈るばかりです。
<上祐氏の素顔>
饒舌で能動的な人。
周囲を鼓舞させ邁進するタイプ。しかし言葉で他を納得させたかに見えても心を動かす事まで出来ず、独走するため反感を買うこともしばしばある。
論破しても、相手を感銘(共感)させ賛同を得なければ徒労であることを未だに分からない人。聴き役に徹することが出来ず、相手の真意がつかめないまま押し通すので齟齬を来すことがある。
用件以外の前置きや後付けもしない言動はオウムの体質そのものだが彼は自信家ゆえ、当初から無駄のない語り口だった。その為、周囲に多くのストレスを与えていることに全く気づいていない。男性幹部(大師)の中では真面目な修行者といえよう。性欲や食欲に惑わされない、そして情の薄い人。でも、当時、私が尊敬した法友のひとりであったことは確かです。
麻原との個人的な霊的体験が多く、師弟関係の絆は深い。しかし信徒や法友から特別な能力を認められるような噂は出なかった。T以外で弟子の中では唯一、麻原に否定的な意見を述べ、議論を挑む意固地な人。「おらが大将」の気質は麻原と同郷の九州男児ゆえのものかも知れない。
<麻原との確執>
麻原はときどき入滅後(麻原の死後)のオウムを憂い、弟子同士の対立セクトを予言するかのように語っていた。
「私が死んだら、多分、マイトレーヤ(上祐)派とX派に分かれるだろうな。お前たち・・・どちらの派閥に付くか?」と言って、ひとりひとりに問いかけたことがあった。昭和63年秋ごろの会議の席上だった。すでにこの頃から麻原は上祐氏をオウム分裂の萌芽と見ていた。
その後平成元年の夏、選挙(出馬)反対を最後まで訴えていたのは上祐氏、K氏、G氏だった。結局、出馬と同時に参謀のひとりとして活躍したのは上祐氏だった。
その頃、ある会議中に麻原が突然、
「私は、マイトレーヤ如来なんだよな・・・」
とポツリと一言漏らした。間髪を入れず、その場にいた上祐氏が
「ええッ、じゃあ、私は一体何なんだろう?」と頭をかきながら笑った。
事故の存在を否定されたような麻原の一言に、困惑と皮肉を交えた苦笑いだったように思う。
上祐氏を無視した麻原の発言かも知れないが、上祐氏はそれ以上に「弥勒菩薩(マイトレーヤ)」の使命を強く意識していた証だと思われる。上祐氏は麻原氏を差し置いて己をマイトレーヤ菩薩(=仏陀の化身)だと自覚していたように思われた。
同じ頃、麻原が
「私が死んだらお前たち、どうする?」
とひとりずつ訊いたことがあった。
上祐氏は「3女(アーチャリー)を守護し、オウムの教義を守っていきます」と。
早川(紀代秀)さんは「どこかの山に篭って瞑想に耽るでしょう」と。
私は「オウムを広めます」と。
新実(智光)氏は「死ぬかもしれません。グルについていきます。」と言った。
最後に麻原が、
「多分、女性大師のほとんどが自殺するだろうな、そして男性大師は対立するだろう」と言った。
麻原はことあるごとに、上祐氏を引き合いに出して将来のオウムを案じていたことは確かだった。
平成元年冬ごろにオウムの体制を変える議題になった。その中で教義の強化部長の選任をするにあたり、麻原はこう述べた。
「(教義の強化部長には)マイトレーヤ(上祐氏)しかいないだろう。オウムの教義については、討論したら、多分、私の方が負けてしまうよ」と。
当時麻原は上祐氏をもはや、教義や理屈では説得不可能な弟子、と見ていたのかも知れない。
しかし、麻原が生きている限り師弟関係が逆転することはないだろうと思っていた。
上祐氏は95年10月、破防法の発動を強くおそれ、「麻原を切る」とある政治ジャーナリストに漏らしていた。
「麻原を切り、オウムの名前をなくし、単なるサークルにする」とまで告白していたという。
その後、上祐氏は荒木広報副部長宛に獄中書簡でこう述べている。
「教祖・代表を辞した尊師には公の責任さえない。又、教団は現実、多様化していくと思う。今の長老部の長の正大師(3女)や新しい教祖の方が日々成長されておられるからだ」と。
要するに、麻原はすでにオウムの挙措・代表でないから教団の将来については公の責任さえない。と断言したのだ。今、信徒10名が麻原の私選弁護人を目標に司法試験に挑戦していると噂されている。
この意味合いについても上祐は、
「仮に尊師の私選弁護人が誕生しても、それは全く関係ないことである」
と無碍もなく言い捨てた。
上祐氏には、麻原をオウムの将来に不必要な存在として映っているのかもしれない。
麻原を捨て、新たな教祖を庇護する体制を虎視眈々と構築しつつあると見るべきかもしれない。
ちなみに、上祐氏はその書簡の中で、マスコミや世論の糾弾を「誤解だ」と言い切り、「尊師の予言であり未来予測のための貴重な示唆であって、すべての人々に対する重要な警告のメッセージであると考えている」と言っている。
だが、笑止千万、詭弁もここまで来ると児戯としか言えない。
昭和63年11月15日午後10時から開かれた大師会議の<オウムの方向性>の内容をご覧いただきたい。
この中で上祐氏は
「信者集めのプロパガンダとか国家転覆計画と結びついているという誤解と不安があるため、自分の考えているところを十分詳しく書くことによってそれを取り除きたいと思うからだ」
と息巻いている。彼は、自分でもわからずに欺瞞の弁を重ねている。
11年前から麻原はプロパガンダのためには何をどう為すべきか、と大師会議の場で独断場のごとくと滔々と述べていたのである。
それを知りつつ、よくもまあ、シラを切り、ヌケヌケと「誤解だ」と言えたものだ。
麻原やオウムに不信を抱きつつある純粋な荒木(浩)君に欺瞞と詭弁を重ねつつ、どうにか教団に引き留めようとしても、もはや遅いのではないか。観念するときが来た、と諦めるべきだ。
当時、「尊敬に値する法友」と心から賛辞した、私から一言。
上祐氏よ、麻原を捨てるなら、オウムの教義も捨てよ、そして詭弁をなくし、真実を語れ・・・と。
<上祐の危険度>
当時、上祐氏はポアを強く否定する弟子でした。
昭和63年11月17日深夜、名古屋支部営業のH君が自損事故に遭い、病院の集中治療室で生死をさまよっていた。その知らせを受け、麻原は富士のサティアンからH君の意識をコントロールしていた。脇待するIH、上祐に向かって「今意識を肉体に戻したぞ」と告げ、「確認してみろ」と言った。病院でH君を見守る弟子にその旨を知らせると、H君の意識が戻ったという返事があった。それから数時間、麻原は意識の出し入れを繰り返し、H君の将来を見据えた結果「ポアするしかないな」と判断し、ポアに至ったと言った。その直後、H君を見守っていた弟子から死亡の知らせが来た。
上祐氏はこの時、「どうしてポアしたんですか」と猛烈に抗議した。
麻原は「生きていても修行できないじゃないか。功徳が積めないならポアするしかないんだよ」と弁明した。
「それでもいいじゃないですか。いくらなんでもポアする必要はないでしょう。」と上祐は食ってかかった。憤りは納まらず、上祐氏はドアを勢い良く開け、走るようにして部屋を出ていったという。私は上祐氏が目を赤く腫らして麻原の部屋から出てくる場面に遭遇した。
私は入れ替わるように部屋に入った。
椅子に座っていた麻原は、話の途中だった。
「仕方なかったんだ。それが一番なんだよ」と繰り返していた。
最後に、ポアの決断を逡巡するかのような渋面な面持ちのまま、上祐氏の座っていた方に向いて、つぶやくように言っていた。
ことの経緯を知り、当時の私は、ポアされたH君よりも「グル」の判断に対して猛烈に非難した上祐氏の方に衝撃を受けた。当時の私はポアを信じていたからだ。今は違います。
以前から麻原の過激な発言や突飛な発想に対し、悉く意見(討論)していた上祐氏が、教団の行く末について憂慮する思いは感じていた。
ただ、「グル」と弟子との霊的な領域にまで鑑賞し、強く反発するとは、当時の私は夢にも思わなかった。
それからの麻原の上祐氏の印象は<決して、どんな理由があろうと、無理難題な麻原の指示・命令には従わない人>と意識していたように思う。
その後に起こった田口さん殺害事件や坂本さん一家事件に上祐氏は呼ばれることもなく関与していない。選挙出馬にも最後まで反対し続けた。
(※この後、宮前氏は選挙期間中にオウムを脱会し事件を隠したまま生活を営んでいた)
それから、のちの上祐氏はロシア渋のトップとして布教活動に尽力し、オウムの表看板(プロパガンダ)として活躍していたと仄聞する。
95年10月に上祐氏が逮捕された時も、まさか凶悪犯罪に関与するわけがないと信じていた。
だから、たとえ上祐氏がオウムに戻ったとしても、<まさか、ヴァジラヤーナを肯定し、発動するわけがない>と、安易に思っていたのです。
ところが、今年の春頃、オウムの信徒数が増え続けていることがわかりました。又、全国各地で住民とのトラブルが相次ぎ、ダミー会社の収益がオウム拠点作りの資金源となり、上祐氏の手記が荒木(浩)君を介してオウムのHPやマスコミで公表され、上祐復帰の不安情報が湧き上がってきました。その頃から、徐々に憂慮せざるを得なくなったのです。
新たな情報として上祐氏の一面を知ることとなり驚愕したのも、一つの原因でした。
それは、M君と井上(嘉浩)君の公判証言です。サリン量産計画の中で上祐は、
「7トンのプラントを造るんじゃないですか」
と言ったとか、炭疽菌の生成指示で、麻原が井上君に
「上祐にやらせるから、上祐の下で仕事しろ」
と言ったという内容です。
上祐氏はまさにヴァジラヤーナの先鋒に立って指揮する立場にあると思いました。
一体、いつから上祐氏はヴァジラヤーナを肯定したのか、私は悩みました。
そういえば、こんなことがあった。
平成元年11月15日の三面記事に、坂本(堤)さん宅の寝室に<プルシャ>(教団で霊的エネルギーが宿るとされているバッジ)が落ちていた、という写真が掲載された。その日、麻原と実行犯6人が図書室で密談していると、突然上祐氏が入ってきた。
「何ですか、これは『プルシャが落ちてた』といってこんなにデカデカと載ってるじゃないですか!」
と新聞を拡げ、右手でパンッ、パンッと叩きながら皆を蔑視するかのような嘲笑を投げかけて、言い切りました。
麻原は「もしかしたら在家信徒が殺ったとしても、おかしくはないなァー」と惚けていた。
上祐氏は間髪を入れず、
「どうせやるなら、こういうミスだけはやってほしくないですねェー」
と暗喩めいた皮肉を訴えた。
この時、私も早川(紀代秀=坂本弁護士事件の実行犯の一人)も、上祐氏は全く事情を知らないと思っていた。又、麻原の態度を見て、疑うことはなかった。
しかし、よくよく考えると上祐氏の言葉にはすでにポアを肯定していた節があった。
<どうせやるなら>とか<ミスだけはやってほしくない>という内容だ。
1年前(H君の事故のとき)の上祐氏ならば
「何ですか、これは、もしかしたら尊師が指示を出したんじゃないでしょうね?」
とか、
「オウムと関係あるんですか、本当のことを教えて下さい」
とか、
「オウムを潰す気ですか、こんなバカなことをやって・・・」
と怒声と共に烈火の如く怒り狂っていたにちがいない。しかし、この日上祐氏は、皮肉だけを述べ、あとは冷静になり<プルシャ>からオウム信徒につながる<犯人像>を否定する記者会見の弁明を考えていた。やはり、平成元年10月31日夜の報告の席で、上祐氏が坂本弁護士から言われた言葉が原因だったのだろうか?
当時、上祐氏は坂本弁護士との話し合いの後
「親が家に戻れ、といえば子供は戻らなければいけないんだ。そして私(上祐)にでさえ『そうだ、あなたも戻らなければいけないんだ』と言うんです。どう思いますか。」
と言っていつになく憤り、憤懣やるかたない勢いだったことを覚えています。
激怒した上祐の勢いに便乗して麻原は坂本さんのポア(殺害)を決断したのだろうか?
しかし、26日に中川(智正)君はすでに注射を用意していた。
当初の標的は坂本弁護士ではなく、(オウム真理教について批判的な記事を書いた)牧太郎氏だったと彼らの調書で知ったが、いつ坂本弁護士に決定したのか、未だに分からない。
事件後、世間の目を交わすためにトンズラ旅行をしていた。その旅行の終わりの頃にインド奥地のあるホテルで、Nさんが戒律をおかし、麻原に懺悔した。
「私をポアして下さい」
と言うNさんに対して、麻原は上祐氏を呼びNさんと話をさせた。
すると「本人が望んでいるなら、そうするしかないでしょう」と、いとも簡単にポアを肯定した。
私は、麻原から上祐氏がすんなりポアを肯定している、と聞いた時に、驚くと同時に<もう、彼は人間界のしがらみを超えてしまったのか>と無機的な侘しさを思った。
結局、Nさんは他の大師からの反対もあり、ポアはされなかった。
帰国してすぐに、上祐氏はオウムで3人目の正悟師となった。
間抜けな私は当時、まったく気づかなかったが、すでに上祐氏はヴァジラヤーナの道程に踏み込んでいたのだと思う。
だからこそ、<プルシャ>の記事を見ても堂々と揶揄できた。
また、フィアンセだったNさんがポアを望んだ時も、是非もなく肯定できたのだと思う。
そういえば、こんなエピソードがあった。あれは平成元年の春頃、私、早川(紀代秀)さん、上祐氏、G氏が図書館にいたときだった。麻原から、
「今から上祐とMが対立してディベート合戦をしろ。題は、輪廻生が存在するのを納得させる側とそれを否定する側に立って、やってみろ」と言われた。
しかし結局、討論はもつれてしまい、ディベート合戦とは呼べなかった。すると唐突に上祐氏が本音を語り出した。
「実は僕は、未だに尊師の全てを信じていません。本当に最終解脱の世界が存在するか分からないからです。しかしいままで体験した実体験は本物だった。尊師の言われたままのものでした。だからこそ、今、ここに居るのです。これからもまだ最終解脱というレベルに到達するまでは100%信用しないでしょう。でも現時点までの消えは疑うことはありません。まだ内面に不安や焦りが心のそこにあるかもしれませんね。」と。
聴きようによっては、麻原への反乱と思えるような告白ですが、上祐氏らしい本音と思いました。
彼はひとつひとつの事象を見つめ、確認し、納得しなければ前に進めない頑固な人なのでしょう。
また、彼はあるインタビューでこう答えていました。
「最初の1年ぐらいは現世と出家修行の間を心が行ったり来たりして、現世に戻ろうかな、と考えたこともあるし、2年目ぐらいになって修行で成功できるか分からないが、現世に戻っても、先が見えているなという感覚になって、4年目くらいで修行のある一定ので以下が出て。」
と告白している。4年目とはマハームドラーの成就の年です。
彼は平成元年11月ごとからすでにヴァジラヤーナを肯定する弟子のひとりだったのです。
そして、今、上祐氏は麻原を開祖と呼び、新たな教祖(長男)を祭り上げようとしている。
上祐氏は自分自身を<弥勒菩薩=仏陀の化身>だと信じている。パラノイアの疑いがあると言われても仕方がないように感じる。
95年、麻原逮捕の後、信徒でもない政治ジャーナリストに、上祐氏は<麻原を切る>とまで言い切った。
師弟関係が逆転することはあり得ないが、将来、上祐が教祖となった長男の手綱をさばく傀儡師となる可能性は十二分にあり得ることだと感じる。もちろん教義が変わらなければ、ヴァジラヤーナの封印もいつでも解かれる恐れが存在する。
宮前一明さんについては、wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%98%8E)、手記(http://kazakimiyamae.blogspot.jp/)をご参照のこと。
<上祐出所後の動向>
まずメディアを最大限に活用し、大々的な記者会見をおこなうだろう。表面は幹部(当たり障りのない)の誰かを代表に見立て、謝罪表明と意味不明な補償プランを発表するでしょう。
その目的は、オウム信徒の救済である。決して社会に受け入れられるための社会復帰とは違う。
彼が被害者やご遺族の心痛を思いやり、思いを馳せることなどあり得ない。謝罪・補償の本質はオウム空間の維持であり組織防衛的なものだ。そしてオウム法案への牽制と世の非難をかわすためだ。
多くのダミー会社を設立して教団の資金を分配し隠匿していきたシステムの延命を巧みに企てるためのパフォーマンスに過ぎないだろう。彼も他の幹部たちも、ご遺族や被害者への謝罪・補償が当然であることを全く分かっていない。だから今まで無視し続けて来たのだ。
謝罪・補償表明と引き替えに上祐はこう訴えるだろう。
「オウムの信徒たちを見守って下さい。罪のない、多くの弟子達にどうか優しく接して下さい。お願いします。」と。
謝罪・補償さえ済めばもう終りだ、と考えているだろう。
被害者、ご遺族の心の傷跡は一生消えないことを知る由もない。
真の苦しみとは修行ではなく、他人へ与えた苦しみの深さを知ることであり、罪の深さから逃れることなく退治し内省することではないだろうか。彼らにはオウムに入信する前の純粋な信仰心に戻っていただきたい。そう心から祈るばかりです。
<上祐氏の素顔>
饒舌で能動的な人。
周囲を鼓舞させ邁進するタイプ。しかし言葉で他を納得させたかに見えても心を動かす事まで出来ず、独走するため反感を買うこともしばしばある。
論破しても、相手を感銘(共感)させ賛同を得なければ徒労であることを未だに分からない人。聴き役に徹することが出来ず、相手の真意がつかめないまま押し通すので齟齬を来すことがある。
用件以外の前置きや後付けもしない言動はオウムの体質そのものだが彼は自信家ゆえ、当初から無駄のない語り口だった。その為、周囲に多くのストレスを与えていることに全く気づいていない。男性幹部(大師)の中では真面目な修行者といえよう。性欲や食欲に惑わされない、そして情の薄い人。でも、当時、私が尊敬した法友のひとりであったことは確かです。
麻原との個人的な霊的体験が多く、師弟関係の絆は深い。しかし信徒や法友から特別な能力を認められるような噂は出なかった。T以外で弟子の中では唯一、麻原に否定的な意見を述べ、議論を挑む意固地な人。「おらが大将」の気質は麻原と同郷の九州男児ゆえのものかも知れない。
<麻原との確執>
麻原はときどき入滅後(麻原の死後)のオウムを憂い、弟子同士の対立セクトを予言するかのように語っていた。
「私が死んだら、多分、マイトレーヤ(上祐)派とX派に分かれるだろうな。お前たち・・・どちらの派閥に付くか?」と言って、ひとりひとりに問いかけたことがあった。昭和63年秋ごろの会議の席上だった。すでにこの頃から麻原は上祐氏をオウム分裂の萌芽と見ていた。
その後平成元年の夏、選挙(出馬)反対を最後まで訴えていたのは上祐氏、K氏、G氏だった。結局、出馬と同時に参謀のひとりとして活躍したのは上祐氏だった。
その頃、ある会議中に麻原が突然、
「私は、マイトレーヤ如来なんだよな・・・」
とポツリと一言漏らした。間髪を入れず、その場にいた上祐氏が
「ええッ、じゃあ、私は一体何なんだろう?」と頭をかきながら笑った。
事故の存在を否定されたような麻原の一言に、困惑と皮肉を交えた苦笑いだったように思う。
上祐氏を無視した麻原の発言かも知れないが、上祐氏はそれ以上に「弥勒菩薩(マイトレーヤ)」の使命を強く意識していた証だと思われる。上祐氏は麻原氏を差し置いて己をマイトレーヤ菩薩(=仏陀の化身)だと自覚していたように思われた。
同じ頃、麻原が
「私が死んだらお前たち、どうする?」
とひとりずつ訊いたことがあった。
上祐氏は「3女(アーチャリー)を守護し、オウムの教義を守っていきます」と。
早川(紀代秀)さんは「どこかの山に篭って瞑想に耽るでしょう」と。
私は「オウムを広めます」と。
新実(智光)氏は「死ぬかもしれません。グルについていきます。」と言った。
最後に麻原が、
「多分、女性大師のほとんどが自殺するだろうな、そして男性大師は対立するだろう」と言った。
麻原はことあるごとに、上祐氏を引き合いに出して将来のオウムを案じていたことは確かだった。
平成元年冬ごろにオウムの体制を変える議題になった。その中で教義の強化部長の選任をするにあたり、麻原はこう述べた。
「(教義の強化部長には)マイトレーヤ(上祐氏)しかいないだろう。オウムの教義については、討論したら、多分、私の方が負けてしまうよ」と。
当時麻原は上祐氏をもはや、教義や理屈では説得不可能な弟子、と見ていたのかも知れない。
しかし、麻原が生きている限り師弟関係が逆転することはないだろうと思っていた。
上祐氏は95年10月、破防法の発動を強くおそれ、「麻原を切る」とある政治ジャーナリストに漏らしていた。
「麻原を切り、オウムの名前をなくし、単なるサークルにする」とまで告白していたという。
その後、上祐氏は荒木広報副部長宛に獄中書簡でこう述べている。
「教祖・代表を辞した尊師には公の責任さえない。又、教団は現実、多様化していくと思う。今の長老部の長の正大師(3女)や新しい教祖の方が日々成長されておられるからだ」と。
要するに、麻原はすでにオウムの挙措・代表でないから教団の将来については公の責任さえない。と断言したのだ。今、信徒10名が麻原の私選弁護人を目標に司法試験に挑戦していると噂されている。
この意味合いについても上祐は、
「仮に尊師の私選弁護人が誕生しても、それは全く関係ないことである」
と無碍もなく言い捨てた。
上祐氏には、麻原をオウムの将来に不必要な存在として映っているのかもしれない。
麻原を捨て、新たな教祖を庇護する体制を虎視眈々と構築しつつあると見るべきかもしれない。
ちなみに、上祐氏はその書簡の中で、マスコミや世論の糾弾を「誤解だ」と言い切り、「尊師の予言であり未来予測のための貴重な示唆であって、すべての人々に対する重要な警告のメッセージであると考えている」と言っている。
だが、笑止千万、詭弁もここまで来ると児戯としか言えない。
昭和63年11月15日午後10時から開かれた大師会議の<オウムの方向性>の内容をご覧いただきたい。
この中で上祐氏は
「信者集めのプロパガンダとか国家転覆計画と結びついているという誤解と不安があるため、自分の考えているところを十分詳しく書くことによってそれを取り除きたいと思うからだ」
と息巻いている。彼は、自分でもわからずに欺瞞の弁を重ねている。
11年前から麻原はプロパガンダのためには何をどう為すべきか、と大師会議の場で独断場のごとくと滔々と述べていたのである。
それを知りつつ、よくもまあ、シラを切り、ヌケヌケと「誤解だ」と言えたものだ。
麻原やオウムに不信を抱きつつある純粋な荒木(浩)君に欺瞞と詭弁を重ねつつ、どうにか教団に引き留めようとしても、もはや遅いのではないか。観念するときが来た、と諦めるべきだ。
当時、「尊敬に値する法友」と心から賛辞した、私から一言。
上祐氏よ、麻原を捨てるなら、オウムの教義も捨てよ、そして詭弁をなくし、真実を語れ・・・と。
<上祐の危険度>
当時、上祐氏はポアを強く否定する弟子でした。
昭和63年11月17日深夜、名古屋支部営業のH君が自損事故に遭い、病院の集中治療室で生死をさまよっていた。その知らせを受け、麻原は富士のサティアンからH君の意識をコントロールしていた。脇待するIH、上祐に向かって「今意識を肉体に戻したぞ」と告げ、「確認してみろ」と言った。病院でH君を見守る弟子にその旨を知らせると、H君の意識が戻ったという返事があった。それから数時間、麻原は意識の出し入れを繰り返し、H君の将来を見据えた結果「ポアするしかないな」と判断し、ポアに至ったと言った。その直後、H君を見守っていた弟子から死亡の知らせが来た。
上祐氏はこの時、「どうしてポアしたんですか」と猛烈に抗議した。
麻原は「生きていても修行できないじゃないか。功徳が積めないならポアするしかないんだよ」と弁明した。
「それでもいいじゃないですか。いくらなんでもポアする必要はないでしょう。」と上祐は食ってかかった。憤りは納まらず、上祐氏はドアを勢い良く開け、走るようにして部屋を出ていったという。私は上祐氏が目を赤く腫らして麻原の部屋から出てくる場面に遭遇した。
私は入れ替わるように部屋に入った。
椅子に座っていた麻原は、話の途中だった。
「仕方なかったんだ。それが一番なんだよ」と繰り返していた。
最後に、ポアの決断を逡巡するかのような渋面な面持ちのまま、上祐氏の座っていた方に向いて、つぶやくように言っていた。
ことの経緯を知り、当時の私は、ポアされたH君よりも「グル」の判断に対して猛烈に非難した上祐氏の方に衝撃を受けた。当時の私はポアを信じていたからだ。今は違います。
以前から麻原の過激な発言や突飛な発想に対し、悉く意見(討論)していた上祐氏が、教団の行く末について憂慮する思いは感じていた。
ただ、「グル」と弟子との霊的な領域にまで鑑賞し、強く反発するとは、当時の私は夢にも思わなかった。
それからの麻原の上祐氏の印象は<決して、どんな理由があろうと、無理難題な麻原の指示・命令には従わない人>と意識していたように思う。
その後に起こった田口さん殺害事件や坂本さん一家事件に上祐氏は呼ばれることもなく関与していない。選挙出馬にも最後まで反対し続けた。
(※この後、宮前氏は選挙期間中にオウムを脱会し事件を隠したまま生活を営んでいた)
それから、のちの上祐氏はロシア渋のトップとして布教活動に尽力し、オウムの表看板(プロパガンダ)として活躍していたと仄聞する。
95年10月に上祐氏が逮捕された時も、まさか凶悪犯罪に関与するわけがないと信じていた。
だから、たとえ上祐氏がオウムに戻ったとしても、<まさか、ヴァジラヤーナを肯定し、発動するわけがない>と、安易に思っていたのです。
ところが、今年の春頃、オウムの信徒数が増え続けていることがわかりました。又、全国各地で住民とのトラブルが相次ぎ、ダミー会社の収益がオウム拠点作りの資金源となり、上祐氏の手記が荒木(浩)君を介してオウムのHPやマスコミで公表され、上祐復帰の不安情報が湧き上がってきました。その頃から、徐々に憂慮せざるを得なくなったのです。
新たな情報として上祐氏の一面を知ることとなり驚愕したのも、一つの原因でした。
それは、M君と井上(嘉浩)君の公判証言です。サリン量産計画の中で上祐は、
「7トンのプラントを造るんじゃないですか」
と言ったとか、炭疽菌の生成指示で、麻原が井上君に
「上祐にやらせるから、上祐の下で仕事しろ」
と言ったという内容です。
上祐氏はまさにヴァジラヤーナの先鋒に立って指揮する立場にあると思いました。
一体、いつから上祐氏はヴァジラヤーナを肯定したのか、私は悩みました。
そういえば、こんなことがあった。
平成元年11月15日の三面記事に、坂本(堤)さん宅の寝室に<プルシャ>(教団で霊的エネルギーが宿るとされているバッジ)が落ちていた、という写真が掲載された。その日、麻原と実行犯6人が図書室で密談していると、突然上祐氏が入ってきた。
「何ですか、これは『プルシャが落ちてた』といってこんなにデカデカと載ってるじゃないですか!」
と新聞を拡げ、右手でパンッ、パンッと叩きながら皆を蔑視するかのような嘲笑を投げかけて、言い切りました。
麻原は「もしかしたら在家信徒が殺ったとしても、おかしくはないなァー」と惚けていた。
上祐氏は間髪を入れず、
「どうせやるなら、こういうミスだけはやってほしくないですねェー」
と暗喩めいた皮肉を訴えた。
この時、私も早川(紀代秀=坂本弁護士事件の実行犯の一人)も、上祐氏は全く事情を知らないと思っていた。又、麻原の態度を見て、疑うことはなかった。
しかし、よくよく考えると上祐氏の言葉にはすでにポアを肯定していた節があった。
<どうせやるなら>とか<ミスだけはやってほしくない>という内容だ。
1年前(H君の事故のとき)の上祐氏ならば
「何ですか、これは、もしかしたら尊師が指示を出したんじゃないでしょうね?」
とか、
「オウムと関係あるんですか、本当のことを教えて下さい」
とか、
「オウムを潰す気ですか、こんなバカなことをやって・・・」
と怒声と共に烈火の如く怒り狂っていたにちがいない。しかし、この日上祐氏は、皮肉だけを述べ、あとは冷静になり<プルシャ>からオウム信徒につながる<犯人像>を否定する記者会見の弁明を考えていた。やはり、平成元年10月31日夜の報告の席で、上祐氏が坂本弁護士から言われた言葉が原因だったのだろうか?
当時、上祐氏は坂本弁護士との話し合いの後
「親が家に戻れ、といえば子供は戻らなければいけないんだ。そして私(上祐)にでさえ『そうだ、あなたも戻らなければいけないんだ』と言うんです。どう思いますか。」
と言っていつになく憤り、憤懣やるかたない勢いだったことを覚えています。
激怒した上祐の勢いに便乗して麻原は坂本さんのポア(殺害)を決断したのだろうか?
しかし、26日に中川(智正)君はすでに注射を用意していた。
当初の標的は坂本弁護士ではなく、(オウム真理教について批判的な記事を書いた)牧太郎氏だったと彼らの調書で知ったが、いつ坂本弁護士に決定したのか、未だに分からない。
事件後、世間の目を交わすためにトンズラ旅行をしていた。その旅行の終わりの頃にインド奥地のあるホテルで、Nさんが戒律をおかし、麻原に懺悔した。
「私をポアして下さい」
と言うNさんに対して、麻原は上祐氏を呼びNさんと話をさせた。
すると「本人が望んでいるなら、そうするしかないでしょう」と、いとも簡単にポアを肯定した。
私は、麻原から上祐氏がすんなりポアを肯定している、と聞いた時に、驚くと同時に<もう、彼は人間界のしがらみを超えてしまったのか>と無機的な侘しさを思った。
結局、Nさんは他の大師からの反対もあり、ポアはされなかった。
帰国してすぐに、上祐氏はオウムで3人目の正悟師となった。
間抜けな私は当時、まったく気づかなかったが、すでに上祐氏はヴァジラヤーナの道程に踏み込んでいたのだと思う。
だからこそ、<プルシャ>の記事を見ても堂々と揶揄できた。
また、フィアンセだったNさんがポアを望んだ時も、是非もなく肯定できたのだと思う。
そういえば、こんなエピソードがあった。あれは平成元年の春頃、私、早川(紀代秀)さん、上祐氏、G氏が図書館にいたときだった。麻原から、
「今から上祐とMが対立してディベート合戦をしろ。題は、輪廻生が存在するのを納得させる側とそれを否定する側に立って、やってみろ」と言われた。
しかし結局、討論はもつれてしまい、ディベート合戦とは呼べなかった。すると唐突に上祐氏が本音を語り出した。
「実は僕は、未だに尊師の全てを信じていません。本当に最終解脱の世界が存在するか分からないからです。しかしいままで体験した実体験は本物だった。尊師の言われたままのものでした。だからこそ、今、ここに居るのです。これからもまだ最終解脱というレベルに到達するまでは100%信用しないでしょう。でも現時点までの消えは疑うことはありません。まだ内面に不安や焦りが心のそこにあるかもしれませんね。」と。
聴きようによっては、麻原への反乱と思えるような告白ですが、上祐氏らしい本音と思いました。
彼はひとつひとつの事象を見つめ、確認し、納得しなければ前に進めない頑固な人なのでしょう。
また、彼はあるインタビューでこう答えていました。
「最初の1年ぐらいは現世と出家修行の間を心が行ったり来たりして、現世に戻ろうかな、と考えたこともあるし、2年目ぐらいになって修行で成功できるか分からないが、現世に戻っても、先が見えているなという感覚になって、4年目くらいで修行のある一定ので以下が出て。」
と告白している。4年目とはマハームドラーの成就の年です。
彼は平成元年11月ごとからすでにヴァジラヤーナを肯定する弟子のひとりだったのです。
そして、今、上祐氏は麻原を開祖と呼び、新たな教祖(長男)を祭り上げようとしている。
上祐氏は自分自身を<弥勒菩薩=仏陀の化身>だと信じている。パラノイアの疑いがあると言われても仕方がないように感じる。
95年、麻原逮捕の後、信徒でもない政治ジャーナリストに、上祐氏は<麻原を切る>とまで言い切った。
師弟関係が逆転することはあり得ないが、将来、上祐が教祖となった長男の手綱をさばく傀儡師となる可能性は十二分にあり得ることだと感じる。もちろん教義が変わらなければ、ヴァジラヤーナの封印もいつでも解かれる恐れが存在する。
上祐とひかりの輪を叩くために、愚生の名前を出してもかまいません。(ひかりの輪はオウムと同じ偽装勧誘そのもの。上祐は未だに他人の自由意志や真の幸福も、心の平和とは何かを全く以て分かっていない)兎も角、どんどん、岡﨑、佐伯、宮前を利用して、ブログで公表すべきですね。
本日は以上です。
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