井上嘉浩が死刑執行直前に「まずはよし」という言葉を述べたと聞きました。この言葉の真意についてはいろいろな解釈があるようですが、たまたまある本が、「すべてよし」という言葉について解説していました。それは道家の荘子の思想だそうです。「道家思想もたしかに超越性原理を樹立した普遍宗教の一つに相違いないけれども、それを「すべてよし」の形態にまで変形してしまったのは、固有に荘子的な展開の方だけと言えるでしょう」。インターネット上に荘子の思想を要約している人がいました。「生をよしとして肯定するのと同様に死もまたよしとして肯定できるはずではないだろうか。…早死にも善しとし、長寿も善しとし、始めを善しとし、終わりを善しとするので、人はこれを人生のならいとするのです」。井上の最後の言葉は、この荘子の思想を反映しているのではないかと思います。執行にのぞんで、死を甘受する荘子の言葉に寄りかかったのではないでしょうか。ちなみに、麻原が師事していた雨宮第二は老子に心酔していたそうですね。「すべて」を「まずは」に置き換えたのは、輪廻転生の思想のせいかもしれない、と思ったりしました。井上の中に、今生を「すべて」として完結させるだけの覚悟はなかったのでしょう。
さきほどの解釈を、私はまだどこにも書いていませんので、どうぞどこかで拡散なさってください。とんちんかんで笑われてしまうかもしれませんが。ちなみに、「早死にも天寿のまっとうも、始めも終わりも、すべて善し(善妖善老,善始善終)」、という言葉は、荘子の『大宗師』からです。わかりやすく解説しているのは、下記のページです。
http://tao-academy.jp/zhuangzi/zhuangzi-001.html 荘子の超越思想についてコメントしていたのは、竹内芳郎『ポスト=モダンと天皇教の現在』という本です。
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